長寿自転車商会(第一)
I'll be back with another English post soon until then stay trued and happy wheels.
以前、「長寿自転車商会とサイゴンカレー」や「長寿自転車商会(取材準備中)」でも触れたように、
長寿自転車商会店主の谷田部氏に、自転車業界での長年の経験についてお話を伺いました。
お時間を割いて取材に応じてくださりありがとうございます。
いえ、こちらこそ.
先ず、いつどこで生まれたか教えていただけますか。
昭和4年2月5日、茨木市下館市です。
ということは95歳ですか。
はい。
自転車に乗れるようになったのは何歳でしたか。
小学校5年生です。
その自転車は覚えていますか。
メーカーは覚えていませんが兄の通学用の実用車でした。
大人用なので足がペダルに届かず、三角乗りで乗りました。
Photo: Bicycle Culture Center 自転車文化センター
お兄さんの通学用自転車とおしゃいました。ご兄弟は何人ですか。
農家の8人兄弟の4男として昭和4年2月に生を受けました。
自転車業界にどのように入るようになりましたか。
戦時中兄3人が兵隊に。
5歳年上の2男は20年の5月にフィリピンで戦死、2歳年上の3男は内地にいたので速帰って来ましたが、
長男が支那から帰って来なくて音信不通でしたので戦死したと思い、家を4男の私が継ぐことになりました。2年くらいしたら8歳年上の長男がひょっこり帰って来ました。終戦で引き上げる時満州国にてソ連兵につかまりソ連に抑留され食料も悪く、重労働で同僚が死んでいく中栄養失調になって怯えされたということです。
長男が帰って来たので、手に職をつけたいと思い、恵比寿で自転車屋をしている方と会え、恵比寿の自転車の問屋さん(卸会社)を紹介され就職しました。
問屋さんに就職したのは何年でしたか。
昭和23年、19歳でした。
その卸会社ではどのようなお仕事でしたか。
同年齢の2人の先輩がいました。戦後に問屋さんでも部品が不足だったので、自分で闇市ででも部品を探したり販売先を開拓したりして毎日自転車で60~70km走りました。
毎日60~70km?
オール鉄製実用車で重くて当時の道路整備が悪くて、おまけに部品も運んでいたでしょう。
相当な大変でしょう。
ええ、悪天気ででも。若かったな。リヤカーの注文を受けるとリヤカーの車体を自転車の荷台に縛り付けて、自転車に乗って配達する事はしました。荷台に重い物を積むとハンドルが上がる様でも自転車での配達でした。
Photo: Bicycle Culture Center 自転車文化センター
Photo: Bicycle Culture Center 自転車文化センター
当時、まだ配給制度中で部品の仕入れは大変、どこからですか。
戦後当分の間、お米と同じようにゴム製品も統制品で配給制度でした。
戦後資源が少なく鉄製品も少なく価格が安定されずその時の相場で取引きされました。
特にゴム製品、タイヤやチューブが統制されていましたので闇市場でとんでもない値段で売買されました。
昭和20年、公定1台分108円の時、闇で2,500円、昭和23,24年には4000~5000円。
第一ゴムのリヤカー用のタイヤは10,700円で取引されていました。
卸会社で何年くらい働きましたか?
昭和23年19歳で入社、昭和50年26歳まで。
続く
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